思い出の昭和、そして上月町
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(第1話)中上月のたいやき屋さん

私の住む上月町には中上月という地区があります。姫新線上月駅を東に進むと踏切があるのですが、どうもそのあたりから中上月という地区になるのではないかと思っています。国道373号線でその踏切を渡ると左にカーブして直線になるのですが、直線になってしばらくのところにはかつて「たいやき屋」さんがありました。たしか私が小学2年生くらいのときに開店したのんとちがうかな・・と思っています。といえば、昭和の38年から40年の間ぐらいの開店か?とも思います。
この店には沢山の思い出があります。2,3年前だったか大阪の朝日放送が「探偵ナイトスクープ」でこの店(既に閉店)の「オバちゃん」を放送していました。番組の中では、もう止めちゃったオバちゃんに強引に「たいやき」を焼かしていましたっけ。

最初の思い出は、私が小学2年生あたりのころの話。横浜に住む親戚筋の「おっさん」が私をその店に連れて行ったのです。なぜその店に行ったのかは謎ですが。そこで「おっさん」は店の「オバちゃん」に言いました。「この子に好きなだけ食べさせてやっててくれ。俺はよ、佐用までパチンコに行ってっからよ」。

さて、ひとり残された小学生の私は「たいやきをなんぼ(いくつ)食べてもよい」という夢のような環境に身をおかれながらも、一人残された境遇を恨めしく思ったものです。
何個食べた頃だったでしょうか、私を一人残してパチンコに行っていた「おっさん」が帰ってきました。そのときにお金を払っている時に知った「たいやき」一個の値段は・・・・・8円でした。ジャムパンが一個15円で買えていたころの話です。

さて、この「たいやき屋」さんは夏には「カキ氷屋」さんにもなるわけで、近所の年上の「おにーさん」とかに連れられて、そのカキ氷も食べたものです。私の近所のこの「おにーさん」は流石にかなりの常連らしく、土間に並べたテーブルでは食べずに畳の部屋に大きな顔をして勝手にあがりこんで、テレビをつけて食べていました。それを見て、訳も無く「さすがー」などと感心していました。
白黒のテレビの中では「ザ・タイガース」とか「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」が歌っていました。そのとき初めて聴いた鶴岡雅義のレキントギター(そのころはギターの種類はわかっていませんでしたが)の音が忘れられません。

さらに思い出は続きます。
すでに中学生になっていたある冬のこと、悲劇が私の右手に起こったのです。私は友達2、3人とそこで「たいやき」を買って、自転車を片手乗りしながらぱくついていたのです。先ほど書いた踏み切りをわたったあたりにちょっとした段差が目に入ったのです。とすればどうするか?
転びたくないので、私は食べかけの「たいやき」を右手にもったまま、そっとハンドルにも手をかけたのです。
やがてその段差を乗り越えたときのこと、そっと持っていた「たいやき」にも段差を乗り越える衝撃は伝わるわけでして・・・・
瞬間、私はあまりの熱さに息をのんだのです。
ドンときた衝撃は、ハンドルを伝わって「たいやき」をもった右手にも伝わり、あろうことか自分の手とハンドルの「私の意図しない共同作業」により「たいやき」のあんこが見事!宙を飛んで私の手の上に乗っかったのです。焼きたてで買ったばかりの「たいやき」のアンコの熱さといったら涙が出るくらいでした。

そんなことがあった中学生の頃も過ぎ、高校生の頃にはすっかり足が遠のいていました。
がしかし、大阪の大学に入ってからというもの、夏休みには田舎で「土木関係」のアルバイトをして生活費を稼いでいたのですが、その帰りに2,3回くらいは寄ったでしょうか。それが思い出としては最後になります。就職して結婚して、子供が出来て・・・、失礼な話ですが「たいやき屋」さんのことはすっかり記憶から消滅していました。
しかし、今日になってなぜか古い話を書きたくなって最初に思いついたのが、この「たいやき屋」さんだったのです。
書いているうちに「探偵ナイトスクープ」での放送も思い出したって訳です。
<<2005.07.24記>>
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